ねりま九条の会第8会総会記念講演

震災・原発事故から考える現代日本と憲法

─歴史から学ぶこと─

 

2011.12.4.
 

       

講師 山田朗さん

 

Ⅰ、震災が社会に与える影響


(1)時代背景

1904〜5年 日露戦争

テレビ番組「坂の上の雲」は今日で3年目に入り、いよいよ日露戦争の旅順攻防戦、海軍では日本海海戦など一連の戦いに移るわけですが、歴史を考える上で日露戦争は大きいのです。日露戦争後に日本は大国化しました。極東の小さな国であった日本がロシアに勝ったということは日本人の気持ちをがらっと変えてしまいます。日本が世界的な強国になったという大国意識が芽生えます。しかし、当時の日本人の多くは、どうして日本がロシアに勝てたのかということは真剣に考えなかった。つまり日本軍が勇敢に戦ったから、旅順で大変な犠牲を出しながらも戦い抜いた、あるいは日本海海戦でバルチック艦隊を破ったからという話がどうしても先行してしまい、基本的なことを忘れてしまっています。基本的なことと言うのは、「戦争をやるためにはお金がいる。日本は外国からお金を借りなければ戦争はできない」ということです。戦争というものは大抵そういうもので、全て自腹で戦争ができる国なんてそうそうあるものではない。当時の日本も戦費の4分の3を外国の借金でまかなっていました。ではそのお金を貸してくれた国はどこかというとイギリスとアメリカです。もしそうでなければ日本は日露戦争をすることはできませんでした。その重要なことは意外に忘れられてしまうのです。日本は日露戦争のために膨大な借金をするわけですが、日露戦争では賠償金はとれませんでした。そこで借金を返すために何をやったかというと、また借金をしたわけです。ですから日露戦争後、借金はどんどん膨らんでいきました。イギリスは、日英同盟を背景にしてロシアを押さえるという極東進出を日本を使って実現しようという戦略をとっていました。アメリカはロシアを押さえながら中国東北部の満州に進出したいという戦略があって日本を応援したわけです。そういう大国の戦略というものが背景にあったわけです。

1905年 桂ハリマン覚え書きの破棄─満州をめぐる日米対立の萌芽

 イギリスとロシアの対立の中で日本はイギリス陣営に付いてロシアに勝ち、大国化をしていくわけですが、実は日露戦争に勝った瞬間に次の戦争の種が蒔かれてしまうのです。ポーツマス平和会議がおこなわれているころ、アメリカの鉄道王ハリマンという人が日本にやってきます。彼は、ロシアが満州に敷設した東淸鉄道、後に南満州鉄道(満鉄)になるわけですが、これが日本のものになるだろうと考えたわけです。ところが日本には鉄道を経営するだけのお金もなければノウハウもないだろうから、アメリカと共同で経営しないかという話を当時の桂首相に持ちかけました。当時の桂首相は日本に金がないことはわかっていますから、結構なことだとハリマンの申し入れを受け入れます。ところが小村寿太郎外務大臣が、日本人が血を流して獲得した利権をアメリカと山分けするとは何事かと反対したため、この話は流れてしまいました。つまり、満州進出を狙っていたアメリカはそのために日本を応援したのです。アメリカがというよりはアメリカ資本がというべきですが。
日本の国債を引き受けたのはクーベル商会というユダヤ人です。このクーベル商会というのは、2〜3年前に破綻をして世界恐慌の原因をつくったリーマンブラザーズで、それほどの影響力を持つ金融資本です。そのクーベル商会こそがハリマンの最大の出資者でした。クーベル商会はハリマンが満州に進出するのをバックアップしていたのです。
 ハリマンの申し出を断った瞬間に満州をめぐる日米対立が始まったわけです。この後日本とアメリカの関係は非常にぎくしゃくしていきます。日本には大国になったという意識があるわけですから、アメリカと一緒に満州を支配するという路線は拒否する、アメリカはアメリカで日本がロシアに勝てたのはアメリカのおかげだと思っているから、自分が満州に進出するのは当たり前だと思っているのです。

1907年 英露協商・日露協商─日露による満蒙の分割

 日本はそれを感じておりましたので、かつての敵ロシアと手を結ぶという路線をとります。しかし当時の多くの日本人はそれを知らなかったのです。日本は裏でロシアと手を結んだのです。日露協商という条約を結んで、秘密の内にモンゴルと満州を分割します。南満州は日本、北部満州はロシアの勢力圏、それから内蒙古は日本の勢力圏、外蒙古はロシアの勢力圏として認めようというわけです。今はどちらもモンゴル共和国ですが…。実はこの段階でイギリスとロシアは接近して英露協商を結ぶわけです。だからイギリスとロシアの戦いはもうあり得ないのです。日本と一緒にいたイギリスと、日本が敵だといっていたロシアが手を結んでしまったわけですから、第2次日露戦争が起こることはなくなりました。そしてそのほぼ同時に韓国を併合します。

 

2 アジア情勢の激変

(1)1911年 辛亥革命─アジア激動の始まり

 中国で辛亥革命が起きて清朝が崩壊します。今年は辛亥革命100年の年です。清朝はアヘン戦争以来ずっと欧米列強と日本に侵害されていましたが、ついに辛亥革命で倒れました。日本は開国に当たって欧化政策をしますが、天皇制という非常に古くさいものは残しました。ところが中国や韓国では欧化政策に激しく反発していたのにもかかわらず、君主制を廃止してしまいました。欧米的な近代化路線をとろうとした日本は君主制を温存しながら近代化を推し進め、中国では反発しながら君主制を廃したのです。辛亥革命はアジアの情勢を大きく変えていく重要な事件です。清朝が倒れ中華民国はできるけれども、強力な国家ができたわけではなく、しばらくは混乱状態が続きます。

 

(2)1926年─北伐の開始─中華民国国民党政府による国家統一の動き


 1910年代20年代の半ばぐらいまで中国は混乱しますが、1920年代の半ばから国家統一という動きが始まります、蒋介石による北伐(辛亥革命後の軍閥割拠状態になった中国において、孫文蒋介石指導の国民党による全国統一を目指して戦われた北京政府や各地軍閥との戦争。特に1926年から1928年のものを指すことが多い。)という動きです。当時の日本の指導者(軍人たち)は中国が強国化してくると、日本の権益を奪われるのではないか、日露戦争以後に確立した権益が奪われる、満州の権益や朝鮮の権益が奪われるという危機感を持ちました。


(3)1927〜28年 山東出兵一張作霖爆殺事件


 そこで中国の国家統一の動きを邪魔しようということで行ったのが、山東出兵です。北伐と闘っていて本来は日本の味方であるはずの満州の大軍閥である張作霖彼を暗殺します。北伐に対抗するという点では日本と一緒の筈です。ところが張作霖を日本側が暗殺する。暗殺してどうしようとしたかというと、混乱状態をつくりだそう、この機会に満州を占領してしまおうとして狙ったのが張作霖爆殺事件です。張作霖爆殺事件というのは失敗に終わった満州事変ということができるのです。満州占領を狙って始めたけれども、天皇が出兵命令を出さなかったので満州を占領することはできなかった。ですから関東軍は今度やるときには天皇が何と言おうとも、政府が何と言おうとも既成事実を重ねて満州を占領してしまおうと考えて3年後に満州事変を起こすわけです。ですから張作霖爆殺事件というのは満州事変の予行演習的な性格を持っているのです。中国情勢の変化が日本国内に危機感を及ぼし、日本の権益を確保するためには乱暴な手段を使ってでも満蒙を占領してでも日本の権益を確保するという議論が流行っていたのです。


(4)北伐への対応一日本と英米が対立する構造に


 アジアは紛争や緊張が絶えないわけですが、中国がどういうふうに動き出すかがアジア情勢では大きいのです。中国が混乱すると、その混乱はその周辺国に及ぶのです。中国の混乱時代は日本においても混乱時代なのです。例えば、中国が明から淸に変わったときは日本では戦国時代というように波及していくのです。1920年代の中国は混乱を極めた時期です。すると、その混乱に乗じて欧米列強や日本が進出をしていく、実は混乱している中国がだんだんまとまって行くとき、今で言えば大国化していくときに、これに対してどう対応していくかが実は難しいのです。1920年代の中国の国家統一の動きに対して、日本は北伐の動きを阻止して日本の権益を守ろうとしました。欧米列強は最初は同じように北伐を阻止するのですが、ある時点からこの動きは止められない、中国における国家統一の動きは止められない、それならいっそ国家統一の動きを援助して、そのことによって権益を確保しようと考えを変えます。そこで何が起きるかというと、中国の蒋介石政権に敵対して日本の権益を守ろうという日本と、蒋介石政権を援助することで自分たちの権益を守ろうとする欧米列強とは全く違う立場をとることになります。そのために日本が中国に進出することを欧米列強は押さえるという構造になります。ですから、北伐に対してとった態度によって、日本は蒋介石政権に対立、欧米は蒋介石政権を後押しする、これが日本と英米が対立する構造の出発点になりました。対中国政策は、単に中国に対する政策ではなく対世界政策に繋がります。ここは現代も多分同じだと思います。


3 日本社会の変化


 中国で大きな動きがあったときに日本社会では関東大震災で閉塞状況に陥ります。この時期に、日本では関東大震災があり、さらに20年代には世界恐慌があり、不況にあえいでいます。中国情勢が大きく変わる、世界的な不況、日本で大きな震災というと、現代と全く同じです。世界的な経済混乱、経済低迷の中で、中国が目立った動きがあり、その中で日本が震災により混乱する。これは現代と同じです。関東大震災は大正12年ですが、そのわずか8年後に満州事変が起きているのです。大正時代はいわゆる大正デモクラシーといわれる時期です。ところが昭和になって昭和恐慌があり、満州事変があり、クーデター未遂の事件があるわけですが、それらは離れているような錯覚があるのですが、すごく接近しているのです。満州事変のわずか10年で太平洋戦争です。歴史というのは動き出すと急激に動くということなのです。そういう風に見てみますと、今の状況は1920年代の半ばぐらいに非常によく似ていると思います。


(1)1923年 関東大震災のショック

①関東大震災の頃の新聞記事を見ますと、当時の新聞は現代の週刊誌的な要素もありまして、社会面には噂話などが載っているのです。典型的なのは関東大震災の前後に天変地異を予知するような噂、あるいは近世からの伝統的な噂である「件(クダン)=姿は牛で顔は人間」が生まれていたという不確かな噂が新聞に載っていたりする。噂が噂を生んでいっそうパニックが大きくなったりしました。噂話は人間の不安な心理に乗って増幅しますので、この当時の世相がよくわかります。
②明治というのは国民の統合の主体は天皇であるというふうに演出されていくわけです。ところが大正時代は、国民の統合の主体である天皇は不在なのです。大正天皇は関東大震災以前に引退しているのです。引退して1921年に昭和天皇の摂政になりまして、摂政がしかれたということは事実上天皇の引退を意味しています。天皇は生きている以上は辞めるわけには生きませんので、摂政が置かれるわけです。ということは国民の心を統合する軸に天皇が使われてきたわけですが、その点の天皇がいないということになって民心が動揺します。
③この関東大震災の時にはじめて軍隊が災害復旧に出動します。明治大正間にはさまざまな災害があったのですが、軍隊は復旧活動には出動していません。軍隊は治安維持には出動しても復旧活動はしないものと思われていたのですが、関東大震災の時はあまりにも被害が大きかったせいで、軍隊が治安維持ではなく復旧活動を手伝ったわけです。当時陸軍は大変不人気だったのです。第一次世界大戦の末期に米騒動が1918年におきますが、そのときに軍隊が出動して国民に向けて鉄砲を撃ったからです。当時大きなストライキがあると軍隊が出てきて治安する。米騒動やストライキに参加している人の中に多くの在郷軍人がいるわけです。そういうわけで身内や国民に銃を向けた陸軍に対して、非常に批判の目が向けられていきます。ですから関東大震災以前は、陸軍の軍人たちは軍服ではなく背広をきて出勤して陸軍省に行ってから着替えるということをやっていたのです。そういうことをやらないと人力車の車夫に乗車拒否にあうなどひどいことが起きるのです。とにかく陸軍に対する評判はすごく悪かったのです。ところが関東大震災で陸軍に対する不評が挽回されるのです。

(2)1920年以来の不況プラス震災恐慌

①金融恐慌

 関東大震災で東京横浜が被害を受け、経済の中心地が破壊され多くの企業が破産しました。いわゆる震災恐慌と呼ばれる不況です。小さいと復興景気が起きますが、あまりにも震災が大きすぎると、破壊が大きくて経済的な不況が長引くのです。1927年に金融恐慌が起きますが、これは震災恐慌の余波です。震災で多くの企業が不渡り手形を出し、その不渡り手形を何とか救済しようと融資をして延命させようとするために、不良債権と化した手形が市中に出回ってしまう状態になり、銀行が破綻し、取り付け騒ぎが起きたりします。

②世界恐慌よる農村の疲弊

 更にそれに追い打ちをかけるように、1929年に世界恐慌が起きます。1920年代の日本は深刻な不況にあえぐ時期です。当時の日本の経済構造というのは世界の恐慌の影響を最も受けやすい構造でした。なぜなら日本の貿易の主たる輸出品は絹製品なのです。絹織物が輸出額の3割ぐらいを占めていました。その次は綿製品が2割、その次が化学繊維ですので繊維製品が輸出高の6割ぐらいを占めていました。つまり繊維製品に頼っている軽工業国家であったのです。その中でも比重が高かったのは絹です。絹は農家でつくられていました。絹製品は当時から高級品です。世界恐慌という不況のなかで最大の消費地であったアメリカとヨーロッパが不況になりましたから、まず贅沢品から切られていきます。絹製品の消費が落ち込むことで繭の価格が暴落をすると一番困るのは日本の農家です。普通の不況なら都市部に失業者が出るということで終わるのですが、農村部を直撃するという構造になったわけです。普通は不況になると都市の失業者は農村に帰ってしばらく食いつないで景気がよくなったらまた都市に出るという構造があったわけですが、農村に帰ってももっと疲弊しているという状況が、この昭和恐慌だったわけです。ですから行き場がないわけです。行き場がなくなったときに当時の日本人に希望を持って聞こえたのは〝満州〟に移民しようという発想でした。実際満州事変以降、満州移民が増えてきます。そういう風に、中国情勢と不況と天災とが絡み合っていたのです。

③財閥の台頭と格差社会

 1920年代に不況が連続して起こってくるのですが、それによって銀行が破綻する。一方で中小企業が破綻すると大企業に吸収されます。不況にあえいでいる人たちがいる一方で財閥系の銀行や企業はどんどん肥えていくという状態になります。ここに大きな格差が生まれてくることになります。世界恐慌が起きますと生糸産業が衰退して農村が疲弊していく、一連の不況と世界恐慌の影響で、格差社会が目に見えて現れてきます。明治時代は希望に満ちた時代だというように描かれやすいのは、みんなが貧しいからです。大正から昭和の初期にかけて、飢餓線上で苦しんでいる人が大勢いる一方で、他方では大変贅沢な生活をする人が出てきました。第一次世界大戦の時に成金という言葉が生まれましたが、お札を燃やして明かりの代わりにしている絵がありますがあれはあながち大げさな話ではないのです。特に昭和恐慌の頃には、苦しんでいる人がいる一方で財閥は為替投機で結構儲けているということがニュースとして流れますので、多くの人の恨みを買うのです。ですから昭和初期には財閥もテロの対象になるのです。


(3)信頼を失った政党政治


 このころは政党政治が一見定着したかに見えた時期なのです。当時は、民政党と政友会が2大政党でした。民政党は今の民主党に似たところがあって、政友会は自民党に似た政党なのです。この2大政党時代で、民政内閣の時に世界恐慌が起きたのです。ここで経済政策を失敗します。不況の時にデフレ政策をとったのです。不況なのに金融を引き締めて金を出さないという政策をとったために不況が長引いてしまったということになりました。
失敗したことによって、民政党が信頼を失ったのではなくて、政党政治が信頼を失ってしまうということになるのです。

①ロンドン条約(1930年)「統帥権干犯」事件
 政党の自壊現象、政党排除の空気がロンドン条約統帥権干犯問題によっておきます。つまりロンドン条約を結ぶような政党政治はけしからんと軍部や右翼が運動をしたわけです。統帥権の干犯というスローガンは北一輝が始めるのです。政党政治にとってこれは非常にやっかいな問題です。統帥権となると政党は介入できませんので、それを盾に軍部が批判をするわけです。

②政権の腐敗

 実はこの1930年初頭というのは民政党内閣なのですけれども、選挙の度に政権が変わるのです。金融恐慌の時は政友会の田中義一内閣だったのですが、それが民政党内閣に変わる。そして今度は民政党内閣が満州事変の収拾に失敗してまた政友会内閣に変わるというように政権政党がコロコロ変わる時期だったのです。政権交代が行われるから良くなったかというと、いつ政権が次の政党に持っていかれるかもしれないというために逆に腐敗が進むのです。政権をとっている内に儲けておこうとするのです。汚職が結構起きるのです。とにかく政権を取れば勝ちなのであって、手段を選ばない、スキャンダルを利用して内閣を倒してやろうということで、今とあまり変わらないですね。露骨な利益誘導の選挙運動が行われます。昭和初期には「我田引鉄」という言葉が使われました。鉄は鉄道です。自分の選挙区に鉄道を敷くという意味です。ですから選挙の度に勝ち負けが変わると、鉄道の路線が変わるということが起きるのです。典型的な事例は岩手県大船渡鉄道で、大きな町に鉄道が通らないで、小さな村に通るということが起きています。


4、国家改造論の台頭─戦争とテロ、クーデターの時代


 世界恐慌を乗り切るために危険な兆候が出てきます。日本は満州事変(1931年)、日中戦争へ向かい、ドイツではヒットラー政権が誕生します。アメリカではルーズベルト政権ができて、大土木事業によって不況を乗り切りますが、世界も不況対策で大わらわになります。日本では政党政治が信頼を失ってしまったので、国民の期待は軍に集まります。軍も少し前までは評判が悪かったのですが、政党が自分で自分の首を絞めてしまったので、軍の中に国家改造を唱える者が出てきます。ちょうど中国情勢と経済恐慌が重なった時期に国家改造を唱える人たちが出てくるのです。

(1)宇垣軍縮のしこり

 軍の中には大正時代から連続して行われた軍縮に不満を持つ人々がいました。軍縮というのは注意をしながら段階的に行わないといけないのです。急激な軍縮をやると反動があります。一般論としては軍縮の方が望ましいのですが、やり方を間違えると反動がある。その典型が宇垣軍縮です。部隊を4個師団廃止するというやり方をしたために反軍縮のしこりを残しました。政党政治主導で軍縮が行われたために軍人の恨みが政党政治に向かって行き、それを変えようという方向に向かったのでした。もともとは軍を変えようとしていたのです。軍の中は長州藩と薩摩藩を中心とした藩閥支配が横行していて、それが日露戦争後に強くなるのです。長州が中心となって陸軍の中枢を握り、それ以外の出身者はどんなに頑張っても出世できないのです。軍縮になると長州出身者は生き残り、それ以外は首になるので、ますます恨みが強くなります。ところが、日露戦争以後、官僚制が整って、軍の中でも陸軍士官学校を出た人がエリートコースを行くというコースができるのですが、その中でも山口出身、次に鹿児島出身が優遇されていました。こういう格差社会、差別社会になっていました。そうなると、軍の中で有能だけれども出世できそうもないという人たちが、軍を改革しようと考えるようになります。その軍を変えようという発想が次第に大本である国を変えようということになっていったのです。

(2)革新から国家改造(昭和維新へ)

 最初陸軍の革新を唱えていた人たちはだんだんに国家の革新あるいは国家改造、つまり政党政治を打倒しようという方向に向かうようになります。そして実際にクーデター未遂事件が起きます。あるいは石原莞爾たちが満州事変を起こしたのは、実は国家改造につなげていこうという強い意志があったからです。満州を占領してその勢いで日本を変えていこうというわけです。
 1930年代には国家改造派による満州事変に加えて、テロ未遂事件が頻発します。
1930年(昭和5年)浜口首相狙撃事件、これで浜口首相は助かるのですが、このときの
    怪我がもとで翌年亡くなります。
 31年3月 3月事件(桜会・大川周明らによる宇垣内閣樹立クーデター未遂)
   9月 関東軍の石原莞爾・板垣征司郎による満州事変
   10月 橋本欣五郎らによる軍部内閣樹立クーデター未遂
   12月 犬養内閣が成立。皇道派の荒木貞夫が陸軍大臣に就任(青年将校らに期待
     されて国家の革新を言う)
  32年2月 血盟団事件(井上準之助前蔵相を暗殺)
   3月  同   (恨みが政治家と財閥に向かい、団琢磨、三井合名を暗殺)
   5月 5.15事件 (海軍青年将校らが犬飼毅首相を暗殺) 
 当時は右翼的な国家改造のことを革新と呼んでいました。そして実際にテロ事件が起きたわけです。ところがこういう事件は、犠牲者ではなく犯人に対する同情がすごいのです。血盟団も5.15事件も、犯人への減刑嘆願の手紙が裁判所に山のように届いたと言います。手紙だけならいいのですが、小指を切り落としてそれを裁判所に送りつける人たちが続出したのです。それは裏で在郷軍人会や右翼団体が組織化していたということもあったのです。ですから、当時の首相を暗殺するという事件でありながら血盟団や5.15の首謀者は誰も死刑にならないのです。しかも全員が戦前の内に出所しているのです。1940年の紀元2600年の恩赦で全員を釈放するのです。5,15や血盟団に関係した人の中に、戦後地方で県会議員になった人がいます。この5.15 事件をもって日本の政党政治は終わってしまうのです。
 その後に起きた2.26事件は違います。2.26事件は逆に全部死刑になります。これは流れが変わって、軍の中枢を統制派が握ったということなのです。これに反対した皇道派が弾圧されるということになったのです。

 

Ⅱ 原発事故が示す歴史の忘却

1 想定外は歴史の教訓を無視した言葉

(1)人類は記録を残している

  原発事故が起きました。想定外の津波が来たと言いますが、その言い方は歴史の教訓を無視した言い方です。数百年や千年単位で考えれば津波などはそれなりの記録が残っていて、今回の津波も内陸まで押し押し寄せるような津波では、貞観大津波というのが平安時代にあるのです。そういう記録が残っています。言い伝えとして残っていたし、文書の記録としても残っています。地質学上の調査でも残っていて、この津波はあり得ないことではなかったのです。ただ、千年に一度などという言い方をすると〝起こらない〟という意識になるのです。
 千年に一度というのは考え見ると難しくて、人間の歴史で考えると千年というのは長い時間ですけれども、地球の歴史から見ると千年というのは一瞬の時間です。そういう点で言いますと自然を相手にするときに、人間は自分を基準にして時間のスケールを考えてはいけない。地球の歴史で考えなければいけないのです。実は人間の歴史というのは、特に日本では地震とか津波とか風水害などという自然災害との戦いの歴史です。明治時代のちゃんとした記録に残っているだけでもたいへんな被害です。


(2)日本は災害多発地域


 日本人は日本という場所を住みやすいと意識している人が多いのですが、外国から見ると、とてつもなく怖い場所と思われているようです。地震や台風が結構やってくるけれど、ヨーロッパやアメリカに住んでいれば一生地震なんかには会わないで済むのです。震災があって、明治大学も授業を一ヶ月遅らせたのです。4月から来るはずの留学生がやってこないのです。先生もやってこないという事態に見舞われました。ネイティブの先生がアメリカに帰ったまま帰ってこないのです。確かに世界地図で見ると福島と東京はとても近いわけです。日本は、気象自体はとてつもなく熱いわけでもなく寒いわけでもない、そういう点では日本は平均的に見れば過酷ではないのです。しかし、時々やってくる災害という点では結構頻度が高いのです。特に今年は地震があり、津波もあり台風もあり、水害もありました。狭い土地に人間が密集して住んでいますから被害を受ける可能性が高いということです。過密であっても過疎であっても災害は起きます。過疎であっても山林が手入れできなくなってしまうので水害が起きたり山崩れが起きたりします。

 

2 災害への備えを軽視してきた「安全保障」

(1)災害よりも戦争への備えを優先

 日本では災害に対する備えが行われてはいるのですが、これを安全保障という概念で考えてきたろうかということです。安全保障というのはだいたい軍事的に国家を守るということが中心になっていますが、国民を自然災害から守る、あるいは食糧危機から守る、病気から守る、ある意味でそれが広い意味での安全保障であるわけです。関心の向け方が違うのです。近代のアジア太平洋戦争を除けば、戦争の死者よりも災害による死者の方が確実に多いです。太平洋戦争は300万以上が亡くなったわけですからこれはちょっと違いますが、日露戦争も10万人の死者がでましたが、それ以外では、関東大震災でもそれぐらいの死者がでています。日清戦争は1万人、明治ぐらいまでは1万人ぐらいの死者を出す自然災害は割とあるのです。戦争への備えはかなり計画的に行われているけれども、自然災害への備えは意外にされていない。では何を備えるのかというと、今までの明治三陸大津波、昭和の三陸大津波の経験から防波堤をつくったわけです。これは自然災害を力で押さえようと、科学技術あるいは土木技術によって押さえようという発想です。もちろんそれは必要なのですが、それこそ人間の力の及ばないことがあるので、いかに自然災害をかわすのということが大事です。
 水害対策としてダムが大量にできましたが、これは力で押さえようという発想です。しかし、ヨーロッパやアメリカではダムでは水害は押さえられないというので、遊水池をつくって水害を押さえるという発想なのです。日本は土地が狭くて人間がたくさん住んでいるということもあってダムを造ってしまった方が簡単だということもあってずっとダムによる治水が行われてきました。しかし、発想を変えなくてはいけなくなってきたことが明らかになりました。日本は多くの自然災害に遭いながら経験が蓄積されているにもかかわらず、意外に進まなくて、欧米で何かが行われるとそれを見習うという発想なのです。


(2)都市優先・利害優先は災害にはそぐわない

 関東大震災の後にも都市計画が叫ばれるのですが、充分に行われないのです。それは都市優先、利潤優先という考え方、特に戦後はそうだと思います。そういう考え方が中心となって、千年に一度起こるか起こらないかわからない災害に対して備えるよりはもっと別のところにお金をかけようと、それは都市開発もそうですし、利潤ということを優先して考えるとそこまでやらなくてもいいだろうという発想になってしまう。しかし千年に一度というのは本当に千年後かもしれないし、明日かもしれないということがあるわけです。そういう意味ではある程度地震の予知的なことが行われつつあります、それこそ巨大地震の可能性のシュミレィションで、何十年の内に何パーセントの確立で起きるということがわかってきています。それだけわかっていれば打つ手もあると思うのですが、やはり都市優先と利潤優先の考え方とどういうふうに折り合いをつけるかということで、なかなか進んでいかないところがあると思います。


(3)自然との共生を考えてこなかった

 利潤優先の資本主義も、社会主義国家も自然との共生という考え方をしてこなかったのです。社会主義国も自然改造とか、おさえる発想です。自然災害をかわしていく、かわしながらも人命だけは守るという発想が大切なのではと思っていますが、人間が全ての自然をコントロールできるわけではないという考え方は、1980年代の後半だと思います。1980年代というのは価値観の大きな変化が生まれたときなのです。1979年に当時のソ連がアフガニスタンを侵攻した事件をきっかけに米ソ冷戦が再燃します。それまでデタントとか言っていたのが一転して核軍拡を中心とした軍拡競争に突入するわけです。ところが核軍拡競争が起きた80年代半ばに、ヨーロッパを中心に反核運動が起きます。特に80年代末には非常に高まります。それは核戦争になるとどうなるかというシュミレィションが行われ、核の冬ということが言われて、核戦争が行われるとその後の気象の激変が起きてその後で人間が本当に生きていけるかどうかわからない状態になる、放射能の問題もあるのだけれども、気象の激変の恐れがあるということが言われ、その後の温室効果ガスによる地球温暖化という問題もありまして、その認識は現代まで広まりつつあるのですが、まだ世界的に見れば自然を押さえ込もうという発想はなくなってはいなません。

 

 3エネルギー産業による支配の構造

 (1)石油・天然ガス原子力を支配する米エネルギー産業

 今回の東京電力の原子力発電所の問題を考えてみますと、これは東電だけの問題ではなくて、エネルギー産業というものに私たちは支配されているということだと思います。石油、天然ガス、原子力を支配する。極端に言うとアメリカの策謀ですけれども、これに支配をされているということです。石油や天然ガスは産出地が政情不安定な中東で、ウラニウム生産地も政情不安定なところが多いわけですが、エネルギー産業と密接に繋がっているのが軍需産業です。つまり、エネルギーを求めて紛争が起きますと、そこで儲かるのが軍需産業ということになります。それと、戦争というのは膨大なエネルギーを使うのです。ですから戦争があれば軍需産業だけでなくエネルギー産業も電源供給ということで儲かるということです。そしてその両者を支えているのが金融資本です。エネルギー産業と軍需産業と金融資本のつながりを基本的なこととして見て行かなくてはいけないと思います。
 中東の紛争の根源は天然ガスと石油をめぐる利権争いにあるわけですが、紛争自体が軍需産業を潤すということがありまして、エネルギー産業と軍需産業は昔から持ちつ持たれつの関係であるわけです。これは別個のものではなく、資本の系列から言うと、だいたいつながっています。

(2)劣化ウラン弾─核廃棄物の再利用

 エネルギー産業と軍需産業のつながり方は複雑怪奇でして、特に原子力ではウラン濃縮の際に出る核廃棄物をどのように処理するかが非常に大きな問題です。核廃棄物を再利用するということがどういう形で行われているかというと、少し前にイラク戦争で劣化ウラン弾というものが問題になりましたね。砲弾の芯の部分に劣化ウランという核廃棄物を詰めている。大砲の弾というのは重いほどエネルギーが大きいのです。重いものを詰め込んだ方が当たったときの衝撃が大きいのです。重ければいいといって金を詰めるわけにはいかない。一番安くて重たいものは、核廃棄物なのです。これは一石二鳥で、体積が小さい割に重たい砲弾が作れるという利点と核廃棄物の再利用ができるという利点があるということで、必然的に生まれ重たい劣化ウラン弾が大量に作られ、1991年の湾岸戦争から使われ始めました。これは砲弾ですから当然それが砕け散って放射能被害を生み出すのではないかということは誰が考えたってわかりそうなものだったのですが、実は劣化ウラン弾が使われる前に大きく問題視されたことがありませんでした。使ってみて、アメリカ兵に被害が出て、はじめて問題にされたのです。相手方にいくら被害が出てもそれは報道もされなければ問題にならない。劣化ウラン弾を打ち込んだ側のアメリカ兵に被害がでてはじめて社会問題になるのです。戦争というのはそういう面がありますよね。
 私は明治大学で登戸研究所の資料館長をやっているのですが、ここは旧日本陸軍の秘密戦のための兵器を研究していたところです。有名なのは風船爆弾、あるいは毒物、あるいはスパイ用の兵器、偽札などもつくっていました。スパイが使う生物科学兵器を開発する、あるいは敵国の動植物を枯らしてしまう。野戦で使う生物兵器は731で開発するのですが、家畜を殺す謀略兵器ですね。その登戸研究所の敷地が戦後明治大学になったのですが、今でも動物慰霊碑というのがあるのです。高さ3メートルのある立派な石碑です。昭和18年につくられたものです。動物の慰霊碑はあっても人間の慰霊碑はないのです。それが戦争の論理、戦争の感覚なのですね。敵国人がいくら死んでいても何とも思わない。人体実験もやっているのです。中国人の捕虜を使って人体実験をしているのです。そういう人に対しては全然慰霊しようという気はないのです。劣化ウラン弾の問題もまさにそうなのです。湾岸戦争の時に既に劣化ウラン弾の問題は報道されたのです。これはアメリカ兵に影響が出たからです。にもかかわらずイラク戦争でまた使っているのです。戦争の合理性だけでそういうことが行われていたのです。打ち込んだ後はどうなろうと知ったことではないと、合理性だけで使うわけです。人道的な武器などはないわけですが、非人道的な武器というのはあって、規制されています。19世紀から非人道的な武器は規制しようという動きが列強の中で生まれてきます。見た目に残虐なものを野放しにすると、みんな戦争に行くのをいやがるからです。残虐兵器禁止の歴史は滑稽で、大砲などは絶対に禁止されないのです。大砲の弾が炸裂したら近くにいた人は無残な死を遂げるのですが、それは禁止されない。兵士が持つ銃剣にぎざぎざをつけてはいけない。これはいかにもいたそうに見えるからです。ダムダム弾という柔らかい銃弾も禁止、なぜなら当たると中でつぶれて取り出せないからです。残虐さを目に見えないようにしていこうということです。
 劣化ウラン弾の使用は核廃棄物の利用を兵器生産に取り入れてしまうことで、「原子力産業にとっても一石二鳥、核燃料のリサイクルということになります。

(3)資源をめぐる戦争

 アジア情勢の激動は現代でも変わらないですね。アジア+中東情勢をひとくくりにすれば激動であることは明らかです。さまざまな紛争は中東から発しています。これは必ずしも宗教対立というわけではありません。宗教対立は昔からありました。スンニ派とシーア派の対立とかいわれますが,それらは昔からあったことで、今始まったことではありません。それなのになぜ世界の紛争の火種が中東なのか、それは資源があるからです。石油と天然ガス、天然ガスも大きいのです。石油が地球温暖化の原因であると言われまして、次のエネルギーは天然ガスであるという声は大きいのです。太陽光発電とかいろいろありますけれども、手っ取り早くできるのは天然ガスなのです。天然ガスの埋蔵地域は石油の埋蔵地域とほぼ重なっているのです。中東か、旧ソ連のイスラム諸国です。ですから必ず紛争が起きるのは中東か旧ソ連の南の方ですが、これは大きな利権があるからです。そのためにアメリカ、イギリス、フランスあたりからの介入を受けるということです。そういう構造で紛争は起きるのです。アフリカで内戦が多発していますが、それらの国はほぼ例外なくウラニウムの産地です。ニュースなどは部族対立などと報道されますが、部族対立は昔からあるのです。欧米諸国がそれに拍車をかけているのです。どちらかの部族に武器を送って援助をすると、他の部族も他の国に援助を求めるということで、激しい内戦になっていきます。本来の部族対立だけなら激しい内戦にはならない筈なのに、外国や外国企業が介入するために激しくなるのです。貧しいウラニウムの産出国は政情不安定ですけれど、介入によって結果的にそうなってしまっているのです。カナダやオーストラリアでもウラニウムは産出しますがそれ以外の産出国は内戦などで政情不安定になっています。アパルトヘイトをやっていた南アフリカは、金、銀ウラニウムの産地だったのです。
 なぜ明治維新の頃に日本は植民地にされなかったのかという議論があるのですが、結果から言いますと欧米列強の矛先は中国に向いていたということです。日本を開国させたけれども、大きな市場であり、資源が豊富なところである中国に目が行っていたのであって、日本は確かに絹やお茶のように輸出するものはあったのだけれども、天然資源に比べれば利益率が低い。天然資源のあるところは今も昔も争奪の場所になっていくのです。19世紀なら列強は直接部隊を出して奪ってしまうという乱暴なやり方ができたのですが、今はそれができないので、地域の政府に介入して権益を確保するわけで、本質はあまり変わっていないのです。

4核をめぐる世界政治

(1)核武装は高くつく

 今でも核武装論者がいます。核武装をした方が安上がりなのだと言う人がいます。しかし、それは間違いです。なぜなら核武装をするとその核兵器を守るための通常兵器が必要になります。アメリカでは、核兵器を積んだ原子力潜水艦を守るために別の潜水艦をたくさん連れています。ですからトータルでいうと安上がりには絶対にならないのです。軍事というのは安上がりということは絶対にない。必ず高いものです。なぜなら安上がりの兵器がどんどん核をめぐるできるなら軍需産業は儲からないからです。単体でみると安くてもトータルでみると高くなる。核軍拡というのは通常戦力の軍拡も当然生みだします。

(2)アジアの軍拡の連鎖

 例えば日本が北朝鮮を恐ろしいと見なして軍拡をすると、それを理由に中国が軍拡をする、中国が軍拡をすると、インドが軍拡をする、インドが軍拡をするとパキスタンが軍拡をして、それに刺激されて中東諸国が軍拡をし、イスラエルが軍拡をする。こういうつながりが私たちの知らないうちにできてしまうのです。これはどこが出発点であっても同じです。軍拡の連鎖は必ずといっていいほど起きるのです。
 エネルギーの問題と核の問題と軍需産業の問題をつなげて論じられることはあまりないのですが、実は密接につながっているのです。だから核に頼ろうとすれば、どうしてもこういう構造を前提にしなければならないので、そこが一つの問題点であると思います。

おわりに

 今は戦後何十年という言い方をしますが、いつ戦前になるかという恐ろしいことにならないように、私たちはしなければならないのですけれども、中国情勢の変動と経済的危機と大天災という1920年代と非常に類似した状況があって、しかも政党政治が国民の信頼を大きく失っていることもプラスしていると思います。こういうときに私たちはじっくり考えなければいけない。目先のことで右往左往するととんでもないことが起きるかもしれない。かつては軍があって戦争に牽引していったわけですが、その牽引者は今はないのですが、しかし後から考えてみて、何でこんなに急激に進んでしまったのだろうというようなことにならないように、私たちは〝目先のことだけで選択してしまう〟ということをしないようにしなければならいと思います。やはり、こういう不安・不満が鬱積しているときに、それを権威主義的な形で変えていこうという動きが出てきます。これが大阪だといってしまうときついかもしれないけれども、その兆候はあるので注意をしなければいけないところです。権威主義的な、あるいは強権主義的な台頭を招く恐れがあるのです。こういう時期にはそれを気をつけなければいけないと思います。まだろっこしいようだけれども、政党政治、あるいは民主政治を基盤にして考えていかなければいけないと思います。実は特効薬はないのだということです。それが歴史の示すところなので、近道を選ぼうとすると反動は大きなものになると思います。

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